剱岳 早月尾根

2009/5/2-4
鈴木、玉田、久保田、渡辺  渡辺 記


「じゃあ、俺と玉ちゃんでエスコートしようか、早月尾根」と博道さんが言うのを、エスコートかあ悪くないなあとほろ酔いでうなずいたのは、4月1日ジャンダルムであった。初めて社会人山岳会に入会し、「ディープな世界へようこそ」とのお言葉をいただいた。待てよ、ということは新人歓迎登山ということだ、私の実力が試されるに違いない。しかし、今更トレーニングとか取繕う時間もないし、開き直って書庫から新田次郎の「剱岳<点の記>」を探し出した。

剱岳に登ったことはない。いつか登るにしても、夏に室堂までアルペンルートでアプローチしてと思っていたのに、早月尾根である。一般ルートとはいえゴールデンウィークは残雪期、吹雪くこともあり冬山装備である。しかもテント泊。私の登山歴は30年近いとはいえ山を教えてもらったのは高校山岳部、それっきりである。昭和50年代の登山技術が通用するのか。それにこの歳で山岳会のペースに付いていけるのかしら。

剱岳には、南から一般ルートの別山尾根、北と東からバリエーションの小窓尾根と源次郎尾根、西から早月尾根が突き上げており、早月尾根は標高740mの馬場島から山頂までの標高差2200m、距離にして7kmの長大な尾根である。

計画は金曜の夜に東京を発ち馬場島で仮眠、1日目は標高2200mの早月小屋でテン泊し、2日目頂上をピストンし同じ場所に泊まる。3日目に下山し東京に向かうというもの。高速道路のETC割引1000円均一のおかげで渋滞が予想された。

5月2日土曜日。6時30分起床。午前4時に馬場島に着いて仮眠したので、ドライバーの玉田さんは2時間しか寝ていない。大丈夫かなあ。富山県警の登山指導センターで出発の報告をする。玉田さんが届出済書をおまわりさんに確認してもらう。富山県登山届出条例により12月1日から5月15日に入山する場合は20日前までに届け出なければならない。が、インターネットでも可能であり、その場合届出済書は県の費用で郵送してくれるのだそうだ。いい県だ、富山県。「天気もいいしトレースもばっちり着いているから」とおまわりさんに言っていただき8時に出発する。

標高1300m位まで雪はなく、カタクリやサンカヨウが花をつけウグイスが鳴いていた。うららかな春の日なのだが、なまった肉体からぬぐってもぬぐっても汗が吹き出した。なにしろこのパーティー、小屋泊まり荷物のパーティーを抜いていくのだ。予想通り私が遅れるようになり、3度目の休憩で荷物を4キロばかり軽くしていただいた。ありがとうございます。

明治40年に、柴崎測量官が三等三角点を埋定した1920mを確認したかったが小豆島産の御影石は雪の下であった。測量隊は尾根の右、白萩川から早月尾根に上がったというが池ノたん谷にはゴルジュやら大滝があるのにと思ったら、今の地図で木綿谷、つまり池ノ谷の手前から上がったのだろう。5月16日というから雪もあったにちがいない。小説「剱岳」では当該地は密林のように木に覆われていたとあるので、針葉樹林帯なのかなと想像していたら、現地は落葉低木、しかもそれは雪の下であった。新田先生、取材が甘いよ。現場を見ないとね。それとも林相が変わったのかな。

このルートは、取り付きからずっと手つかずの自然林に覆われていた。アカミノイヌツゲ、エゾユズリハ、ヒメアオキなど日本海型多雪地帯植物が出迎えてくれた。また稜線にはスギの巨木、タテヤマスギが日陰を提供し、しばし止まって見上げるのであった。ツツドリの声が聞こえ、雪の上に止まる小鳥はカヤクグリかな、など思いながら高度を上げていった。

13時57分早月小屋到着、馬場島から6時間であった。快晴無風。テントを張って宴会の準備が整う頃には汗は乾いてしまった。で、2時台から宴会が始まるのだが、玉田さんのザックから出てきたのはロング缶×6本。「6気筒エンジンですよ」と嬉しそうに雪のテーブルに並べている。恐るべし山岳会。お酒は個人装備であり飲みたいだけ自己責任で準備するので、私はワインを小さいペットボトルに入れてきたが、ほとんど飲まずに東京に持ち帰った。この私の酒量では山岳会の入会条件を満たしていないらしいので、持ち帰ったことは秘密である。

17時にテントの中で、肉1キロによるスキヤキをやっつけたのち19時に就寝。

5月3日(日)3時半に起床するが、まわりのテントは2時台から声が聞こえた。手違いによりガスヘッドが1つしかないので段取り悪くすき焼き味うどんの朝食を済ませる。火器が一つのときは主食を先に調理して、食べている間にコーヒーやテルモス用のお湯を作るんだったなと反省する。

午前5時アイゼン、ハーネス、ヘルメットのフル装備で出発する。高曇りながら快晴。テン場からは急登の連続だが雪は締まってアイゼンがよく効き、順調に高度を上げる。

標高2600m付近で、冬毛の白いライチョウを見つけた。ライチョウは換羽するので白い姿は積雪期にしか見られず、しかも厳冬期のハイマツ帯にライチョウを求めるというのは厳しいので、残雪期に見たいと思っていたのだ。ライチョウはつがいだった。赤いトサカのある雄が岩上で見張るその近くで、メスが餌をついばんでいた。この時期ペアになり6月に産卵し抱卵、そして夏山シーズンの7月にはヒナを連れたメスを見かけることとなるのだろう。

標高2700mを越えルートは核心に入っていた。ピッケルをダガーポジションに持ち、ピックを刺しながらトレースを追っていく。この勾配だと冬は胸までのラッセルだな、久保田君次回は頑張ってね、など思いながら登るとハイマツに取った残置スリングが2カ所あった。下山時は懸垂の支点にするのだ。足下だけ見てひたすら登ってしまったが、滑落したらと思うと足がすくむ。雪稜を順調に進み別山尾根との合流点を示す道標が見えるあたりで獅子岩という岩稜帯になる。ガレたルンゼが所々凍っており、ダガーポジションで進むと、また残置スリングがありこちらは金属のリング付きであった。

稜線に上がると別山尾根から上がってくるパーティーが見えた。後立山の山並みが見え気分よく進むと黒い人工物らしきが見え、まさか、祠?、もう山頂?。

平成21年5月3日午前8時5分、私は剱岳に登頂した。山頂はそれまでの険しさとは違いなだらかであり、雪に覆われているので祠の屋根の一部が見えているだけで標柱などはない。剱岳はその険しさから三等三角点の資材が運べなかったため、測量時は仮設である四等三角点が設置されたため公式記録(点の記)がないという。

高曇りながら快晴で微風。去年の5月4日は唐松岳から剣を眺め、その美しさに憧れを抱いたのだがこんなにあっけなく手に入れてしまった。剣の神様が微笑んでいる。大きな満足に包まれて360度の眺望を味わった。

登頂時山頂は10名くらいだったが、早月尾根、別山尾根、源次郎尾根からぞくぞく登ってきた。源次郎からのパーティーから声を掛けられた。岳連の岩講習で一緒だった阿部さんだ。またしても知り合いに遭遇してしまった。阿部さんはガイドさんとロープでアンザイレンしており、ヘルメットにはヘッドランプが付いていた。2時半に剣沢小屋を出たのだそうだ。ここまで6時間、お疲れさまでした。源次郎は人気のルートで、途上に懸垂する箇所があり渋滞するため、早朝に出発するのが必定だそうだ。渋滞のためビバーグになる場合もあるとか。早月よりずっとアルパインっぽくて、ちょっとうらやましい。

次の目標がチンネだという久保田君と玉田さんは、八ツ峰方面の観察に余念がない。「冬の八ツ峰や剣尾根をやるクレイジーな人もいるんだよね」と博道さん。早月尾根はクレイジーな方々の下山コースであり、アルペンルートの閉ざされる冬の早月は最もイージーなルートというわけだ。

立山信仰における剱岳の位置づけは、生身の人間は登れない山、登ってはならない山であって、登頂した者は生きては帰れない死の山である。悪業を重ねた者が死後追い上げられる地獄の針の山なのだ。高校の時「剱岳」を読んだ私は明治40年の立山信仰を信じ、自分には恐れ多くて登れないと思い込んでおり21世紀の今日までその想いを引きずってきたが、山岳会のメンバーのおかげであっさり登らせていただいてしまった。果たして生きて帰れるだろうか?

8時35分下山開始。途中2カ所で懸垂下降し早月小屋着10時30分。先日、つづら岩で懸垂下降の際、投げたロープが木に絡まってひどい目にあった。越沢バットレスで玉田さんは、支点側のロープに束ねたロープを載せて降りていった。5mくらい出しながら降りたのだそうだ。今回もロープダウンせずに、セカンドが上から少しずつ繰り出して降りていった。なるほど。

テン場に付いたのが10時半と早かったので下山することになった。小屋でトイレを借りた時、小屋番さんにその旨話すとテン場代を清算してくださるという、ならばそれでビールを下さいと3本いただいた。もちろん一度払ったテン場代は返金などないと思っていたので思いがけないことだった。富山の人はいい人だ。

11時半に小屋を出ると、玉田久保田組はどんどん降りてしまいあっという間に見えなくなった。私は博道さんの「自分のペースでいいよ」という言葉に甘え、よろよろと昨日来た道を下った。今日は標高差800m登り、2200mの下りである。さすがに体のパーツが疲労でガタついてきた。途中、雪が消え登山道の土嚢が見えたところで、アイゼンを外した。あの小屋番さんが詰めたのであろう土嚢をアイゼンで傷つけるのが申し訳なかったからだ。その後も雪があり、早々にアイゼンを外したのに不便を感じたが、後悔はしなかった。

14時50分、馬場島の登山口に着くと客待ちのタクシーが声を掛けてきた。ここはauの圏外なので必要な人には助かるだろうと思う。また、観光で来ている人が「どこ登りなさったの」と声を掛けてきて剱岳と答えると「それは大変なことで、お抹茶たてるから飲んでいきなさいな」と言って下さった。仲間を待たせているからと辞したが、富山の人はいい人だ。

玉田さん、久保田さんは待ちくたびれた様子で1時間以上待ったという。申し訳ない。私のペースは昭文社のコースタイム通りなのだけれど、そんなのおかまいなしなのだ、恐るべし山岳会。登山指導センターに下山の報告をした。昨日と同じおまわりさんとしばし雑談し情報交換をする。五竜の富山側で滑落による遭難があり1名女性が亡くなったそうだ。悲報を聞くたびに、自分だけは遭難しないようにという思いを新たにする。

上市の温泉施設で入浴し、滑川の道の駅付近で泊まり、4日(月)6時20分に立ち、上信越道を渋滞なく上京し11時30分に武蔵浦和駅に到着した。そして、今回の山行費用はというと、交通費、食費、テン場代、燃料代入れてお一人様なんと6500円であった。3泊3日剱岳登頂ガイドプランが6500円、恐るべし山岳会、でした。

体力も技術もまだまだと思い知らされた新人歓迎登山であったけれど、今回の山行は私のやりたかったスタイルであり、大きな満足を得られた。これからもこの会で登り、もう5キロ背負える体力を付け、新しいルートの記録を刻んでいきたい。博道さん、玉田さん、久保田さん、ありがとうございました。これからも末永くお付き合いください。

装備について

[あってよかったもの]
カイロ(春山でも必要)、ストック、日焼け止め、つまみ(宴会タイムが長いので多めでも良い)、ロールマット、防水用袋、アイマスク

[あればよかったもの]
ガスヘッド、アミノバイタル、登攀向きの冬靴(前爪で登ると踵が浮いてしまう)、虫除け(ブヨに刺された)、水(登りで1.3リットルはぎりぎり)

[要らなかったもの]
なし
※今回は好天に恵まれた為、目出帽、ゴーグル、ミトンは使わなかったが必要。

[課題]
ピッケルの持ち手にゴムを装着、ガスヘッドと小さいボンベは個人装備すべし

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