足拍子川フトゴキ沢

2003/8/20~21
メンバー:飯田・他1  飯田 記


予定は足拍子川フトゴキ沢、続いて万太郎川イドゴヤ沢と継続する意欲的なものでしたが,あくまで予定は予定、フトゴキ沢の余りの悪さ故の精神的ダメージにより1本で終わらせてしまったのでした。
連れ合いは高橋史さんの後輩でもあり,2年前に僕と水無川オツルミズ沢に行った未だ学生をしている好漢であります(会報NO-147参照。相棒は9月に朝日の三面川岩井又沢遡行・荒川下降(合計11級という余り意味の無い計算をしていました)という遠大な計画を立てており,それの練習も兼ねています。但し天候の不順と寒さゆえに朝日については今の時点では少し弱気になっている様です。なお相棒は
2003年4月の”岳人”にメコン川下りの記事で名前付きで紹介されている猛者であります。
8月20日朝5時20分霧雨の中、越後中里の駅を出発しました。歩荷大王は敬老精神の持ち主であり全てのガチャと共同装備を持ち、その他に15×20×25cmの防水防御バックに一眼レフカメラを入れてそれを首に掛けえ歩いていました。途中道に迷ったり、アブの襲撃を受けたりしながらフトゴキ沢の出会いに8時30分に着きました。その頃には青空が広がり僕達の旅立ちを天気も祝福している様でした。
出会いはガイドの通りいたって貧弱な沢でした。見落としても不思議ではありません,水量は丹沢水無川本谷F1の上あたりの水量位しかありません。
NO1、NO2ゴルジュはそれ程難しくありませんが、それでも一つ一つはそれなりに難しい所があります。落差は殆ど無いのですが、釜を持ちハングしています。巻く事は殆ど考えられないというか考え無い方が安全です。
その上の開けたスラブは快適で気分の良い所でした。後ろではカメラマンがバックよりカメラを取り出してはカメラと戯れていました。大きな荷物を背負い,カメラを操作してしかも遅れずに歩くなど信じられない体力と技術の持ち主です。
No3ゴルジュに入ったら途端に絶悪になりました。出口の部分にはボルトの連打がしてありました。
それが人の最初の印でした。僕も出口でハーケンを打ち足してNo3ゴルジュを突披してその上の2段15メートルの滝を見ながら昼飯にしました。そこで12時30分でした。
NO4ゴルジュに入ると同時に絶悪になってきます。一つ一つは登れない事は無いのですが,いやらしくて非常に時間が掛かります。
一つ一つの処理に嫌気がさしてきたので、15時30分ゴルジュの中程で左岸の尾根を目指してエスケープしました。所がこのエスケープが非常に大変でした。出だしは草付きを誤魔化して登り、次にブッシュの中に入るのですが、このプッシュが曲者であってブッシュの上でなくブッシュの中をプッシュを踏み越えかき分けて進んていきます。
Ⅰ“体力も気力も尽きたよ”
K“大丈夫っす。気力は無限大、体力の元の化学エネルギーは位置のエネルギーに変換されて体に蓄えられていくっす。”
Ⅰ“エネルギー保存則ですか、納得。”
ブッシュの切れた横には広沢寺の様なのっぺらした岩場が覗いています。これが登路のブッシュの上であったらと考えると寒気がします。”無茶苦茶恐いじゃん”尾根上に出てもブッシュの凄さは変わりません。進むのは時間だけで距離は一向に稼げません。良く観察するともしかすると踏み跡かもしれない痕跡が見えます。 2人でこれは象ならぬ“沢屋の墓場”に通じる道ではないか、もしそうであるなら墓場で金歯を集めよう等と冗談とも付かない冗談を言いながら進みました。クロガネの頭を少し過ぎた当たりと思われる尾根上に二人が辛うじて横になれる場所を見付けたのが18時30分でした。
夜中煌々と月がでていましたが朝方雨が本格的に降りました。
朝7時30分雨も止んだので出発します。8時30分足拍子岳より南に延びている稜線の途中より土樽駅目指して訳の分からない沢(多分南カドナミ沢)を下降しました。大きい滝が有ればザイルを出して懸垂をします。所が先が全く見当の付かない大きな滝に出合いました。おまけに滝上で本格的に雨が降ってきました。泣きっ面に蜂とはこの事を言うのでしょう。左の尾根に逃げて尾根を下りました。
もしこの尾根に段裂が入っていて降りられない場合は、再度稜線まで登り返すのかなと嫌な想像もしました下りながらさっきまで下降していた沢の方を見たら、一の倉の様な岩壁が見えるではないですか。先の分からない沢を強引に降りようとしなくて良かったと思いました。降りながら、尾根・沢・稜線・頂上鞍部を如何に区別するのか考えていたら、頭が痛くなってきました。土樽の駅に着いたのが14時でした。土樽の駅には飲める水が無いので駅裏の山荘で水を貰い、ラーメンのダブルを食べて電車を待ちました。
この山城の沢は半分以上進んだならエスケープする事は考えない方が良いと思われます。半分以下なら同ルートを引き返す事ができるでしょう。稜線上の登山道は全て廃道となっており、遡行が終わった後の下降が問題となります。
殆どの荷物と判断を若者に任せ、50を過ぎたおじさんは旅人をしてしまいました。そして安全と保身を考えてしまい突撃をためらう根性が情けなく反省をしています。昔の精神は何処に行ってしまったのでしょう。

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