鹿島槍・天狗尾根~八ヶ岳

1997/12/30~98/1/4
メンバー:倉島・飯田  飯田 記


正月の山行として鹿島槍の天狗尾根に、倉島さんを隊長。和智さん飯田を兵隊として鹿島槍の天狗尾根こ行くことになった。しかし正月の天気が良く判らず和智さんの都合により隊長1人・兵隊1人の小部隊で行くことになった。飯田は最後まで細かい予定を知らず(下山予定日も知っていなかった)ただ隊長に任せっきりの無責任山行をしていた。倉島さんの名誉の為に付け加えれば、兵隊が隊長の言う事を右から左に聞き流していたというのが真実である。

12月30日   雲り
朝5時信濃大町の駅に集まり、同乗者1人を集めて大谷原へタクシーで向かう。雪が例年より大幅に少ないという情報により、大冷沢に架かる橋の下に輪かんをデポした。ついでに鉄製の赤いスコップ・ビーコン・ゾンデ棒もデボしようと思ったが、それでは余りにも山を嘗めているのではないか、もし会長やリーダーに知れたら大変だと言う事でこれらは思い直して持って行く事にした。同じようなデポ品が他にも2組あった。
出だしで道を間違え赤岩尾根への道に入ってしまう。戻り大川沢の河原沿いの道を行くが雪が少ないので数度の徒渉をさせられる。飯田などヘッピリ腰で徒渉の度に文句を言う。荒沢に入り最初の尾根を登るのだが(帰りに観てもどれが登りロかは良く判らない)なにを間違えたのかガリーを、それも泥と落ち葉と少しの雪の積もった所をアイゼンも付けずに隊長が突っ込んで行く。
気の弱い飯田もしかたなく付いて行くが、とうとう途中で行き詰まり、アイゼンを付けませんかと申し出る。ガリーの中の不安定な場所でアイゼンを付け何とか突破する。尾根上も雪は殆ど無く今度はプッシュとの戦いとなる。現在自分たちがどこにいるのか殆ど判らず、たぶんここが1800メートル台地であろうと推測した地点で12:30に4・5人用のエスパスを張り豪華な宿とする。後で判ったことであるが実際は1600メートル地点であった。
早めに夕飯を食べ、5:00に寝る。飯田は間違えて就寝前に気休めのビタミン剤を飲んだので6:30、8:00と10:00に小便に出る。その後は雪が降ってきたので、小便ボトルを持参するのを忘れた飯田はコッヘルに小便をしてテントの外に捨てる。翌日はそのコッヘルでラーメンを作って食べる。倉島さんはT島さんより借りたコッヘルに買い物袋を被せてその上に糞(大便)をしてテントの外に実の部分だけ捨てる、その後コッヘルの匂いを嗅いで”臭い”と言っていた。隊長の凄いのは、その後その臭いコッへルで飯を作り食べるところである。
翌日の天気は、前半は悪いが後半から良くなるという。どうするか色々迷うが結局翌日の出たとこ勝負にする。

12月31日   雪曇り後晴れ
起きてみると少し雪が降っている。風は殆ど無いが時間が経つに従い風が強くなってくる。どうするか色々な検討の末空身で時間の許す所まで突撃をし、その後転進してベースまで戻り、翌日人恋しさ故に加藤さん・高橋さん・山本さん(A・B・C順です)のいる八ヶ岳に転戦することに決め7:30に出発。
隊長は”クラの下半身”と言われるだけあって最初から最後まで場所によっては腰までのラッセルを1人でこなす。兵隊がその後から付いていく09:00に1800メートル地点と思われる地点に着く。
ここも天場としては良い場所である。その後第1クロワール・第2クロワールを超える。途中で斜面に付いたきれいなトレースを見つけるが良く観ると途中まで谷底に向かっている。たぶん間違えてどこかのパーティーが降りたが間違いに気が付いて登り返した跡だろうと思っていたら、典型的な表層雪崩の跡である。倉島さんが雪崩の発生地点のちょうど真上に辿り着いた所でカメラを撮るために大声(!)で停止を求める。ところがフィルムが巻き上げられていなかったので再度の停止を求める。
倉鳥さんからは険悲な声で“早くしろ”と言う声が返ってくる。第2クロワールの上よりは地吹雪が酷くなり、目は開けておれない。肌の露出している部分は痛くてたまらない、しかし隊長は何処までも突っ込んでいく、天狗の鼻に着いたとき慎重な(臆病な)飯田は引き返す事を進言して引き返すことにする。
天狗の鼻は良い天場との事だが、この強風の中では谷底に天幕を吹き飛ばされる恐れが十分にある。後の話こよれば隊長は荒沢の頭までは突っ込むつもりだったと知った。結局13:45に1600メートルのベースに戻り、翌日は下山して八ケ岳こ転戦することにする。こんな事なら騙してでも和智さんを連れてくれば良かったと思っている。
夕飯を食べ一旦寝てから23:30に起さて年越しスパゲッティーと倉島さん持参のお節料理を食べる。

1月1日(元旦) 曇り後雪
行きの道を引き返す。結局荒沢出合いから尾根への正しい(?)取り付き点は不明である。しかしブッシュさえ気にしなければ適当に収り付く事は出来る。釣り橋を渡った後は行きとは逆に左岸に付けられた夏道を通る。徒渉が無いぶん楽であるが,雪が多けれは斜面に付けられた道であるから苦労することは目に見えている。町に着いたらカツ丼を食べようと2人で話していたが今日が元旦であることに気が付き落胆する。
大冷沢でデポ品を回収し歩いて帰る。しばらく歩いたら後ろから中年と初老の婦人の乗用車が来て乗せてくれるという。有り難く乗せてもらい、少し話をする。ところが普通の人とは何となく違う。天狗尾根の事を良く知ってはいるがそれにしては山屋の服装雰囲気ではない。鈍い飯田は外を見ては店が営業しているかどうかばかり気にしている。大町の駅が近くなった所で20数年前、自分の息子が天狗尾根で滑落して死んだこと、横にいるのは息子の妹だという事をぽつりと喋った。
返す言葉が無い。山などやっていても社会の役に立つ事もなく、もし死ねば回りの人に悲しみ(?)と迷惑を与えるだけである。ある友達は結婚する前に“もし俺が女だったら決して俺とは結婚しない”と言っていた。またそいつは“山にくる暇があるなら英単語の一つも覚えたほうがよっぽど良い”とも言っていた。尤もそいつは一週間に3~4日は山に行き、後はバイトで食べていた。
大町の駅から倉島さんが家に電話をしたらお袋さんが非常に心配していた。何しろ暮れには剣・北岳等で遭難が起きていたので。
その日は茅野の駅で寝て,翌日朝一で八ヶ岳に向かう事にする。
結局天狗尾根の面白さは,大雪のもとで全生活道具を担ぎラッセルをしていくつものピークを縦走する事にあるのだと思う。ただ一つのピークに立つ・ある尾根だけを目的とするなら谷川の方が近いし面白い場面が短い部分に凝縮されており余程良いと思うまた小便ボトルは忘れないように。

1月2日 晴れ
7時一寸に鉱泉に着く。“山本さん”“裕さん”と呼べども返事がない。我々の声を聞いてテントの中で貝になって通り過ぎるのを持っているのではないかと話しをしながら探し回る。
その時祐さんの顔がテントから、会長が鉱泉小屋の方から顔を出す。夜労山の吉尾弘が我々のテントを尋ねてくれる。吉尾さんは倉島さんの事を“倉ちゃん”“嵓の倉ちゃん”、“僕のフリーの先生”といい、そして吉尾さんと山本さんは話が弾み軍歌や当時の世相を話題にする。多分山本・吉尾は同世代なのだろう。そこで僕の隊長である倉島さんは酔っぱらって裸になり肉体美を誇示する。倉島さんは“嵓の下半身”であると同時に嵓の上半身”でもある。

1月3日 晴れ
ショルダーに登る。飯田は臆病風に吹かれ核心部の出だし2ピッチを隊長に任せる。頂上に着いたら隊長が目を赤くしている。核心2ピッチをやって感動したとのことである。
しかし今のぼくに其処まで感動する感性が存在するか。たぶん猛吹雪の中を1週間かけて滝沢リッジからドームへ全てりードして完登してもあれだけは感動出来ない、と言うより何も感じないのでは無いかと思うと、僕にとって山に登るとは何であるのか、考えさせられてしまった。
赤岳の頂上で山渓の編集者により写真を撮られる。場合によっては今度の冬の“山渓ジョイ”に載せるかもしれないという。

1月4日 雪
今日は何処にも登らずに祐さんの車に5人乗って帰る事にする。理論的な飯田は、鉱泉で天幕料を徴収されているのだから、(倉島・飯田隊のゴミは持ち帰るが)他のゴミは纏めるだけで鉱泉に放り出してきて良いのではないかと主張するが、他の4人の良識に負けみんなで背負って降ろす。
美濃戸への道は下が氷・上は新雪のシャーベット状になっていたので、我々の前の車がおかまを掘ってしまう。そのために1時間以上其処に停車させられる。しかし我々の車も同じ事になってもおかしくない状態であった。結局鉱泉の親父が来て道に土を撒き、運転者以外は荷物を担いで美濃戸まで歩き成る可く車を軽くする。その最中はあの温厚な祐さんの声に棘があった。
結局何となく理由もなく天狗尾根は敗退する、八ツでは余り気合いの入らない山行をしてしまったが、それはそれで楽しかったので良かったと思っている。

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