奥秩父 中津川流域 大滑沢

2014/7/26-27
長谷川  記 長谷川


知らない山に行ってみたいと思ったが、土日で足を伸ばせるのは奥秩父くらいまでだ。探してみたらこんなルートが見つかった。「白泰山」という山がある。十文字峠から東へ栃本まで伸びる縦走路中の一ピークで、独立峰とも言い難く、ここをあえて目指して登る人も少ないだろう。だがこの山の肩口まで、流程4800mほどの沢が伸びている。ガイドブックでは「初級」として紹介しており、地形図で谷沿いに等高線を追っても、険谷の気配はない。インターネットで記録を検索したが、あまり出てこない。人気がある沢ではなく、かなり地味な気配。ある意味自分向きだ。では行くか。

 土曜の朝、三峰口の駅10時5分発中津川行のバスに乗り、大滑トンネルの手前で降りる。少し戻って川を跨ぐ手前に駐車場があり、谷をはさんで立派な公衆トイレがあった。この谷に間違いなかった。ゆっくり準備をし、入渓11時半。出だしに堰堤が見えているので、右岸の山道を歩き適当に沢に入る。釜を持った小滝が続くが、予想外に水量が多い。最近まで雨が多かったせいなのだろうが、大水量の部類に入る沢と言っていいくらいだ。大きな滝はないが又、名前のような大きな滑も出てこない。右手から悪そうな滝を持つ支流が出てくるあたりから、連瀑帯になる。そこそこ楽しいのだが、倒木がそこかしこに多いのが気になる。障害物がまったく排除されている気配がない、という事は入渓者がほとんどいないという事ではないのか。
あまり際立ったポイントもなく、中流部の大滝と岩小屋を探す。岩小屋はそれらしい(?)のがあったが、大滝は結局よくわからなかったので、いつの間にか勝手に通過したのだろう。確かに巻いた滝もあるが、でかくて巻いたというより水量が多すぎて、取り付き不能で巻いたものばかりだと思う。営林署小屋というのもあるはずだが、さっぱり出てこない。ネットで見た写真ではしっかりした小屋だった。右岸の台地に石組みの基礎だけの小屋跡が出てきて、これがそうかも知れないが、自然倒壊ではなくきれいに撤去した風だった。ビバークにはいいかと思うがまだ2時半。もう少し先に進もう。
小滝がどんどん続くようになった。ずぶ濡れになりながら突き進んだが、とうとう進路を阻まれた。深そうな釜の向こうに立った5メートルほどの滝。ホールドはあるようだが水が大量に叩きつけて来て、これでは落とされる。左はほぼ絶壁。右に急傾斜の枯れルンゼと草付きの壁。巻くなら右だろうが、普通ならある筈の藪をかき分け踏んだ痕跡がまったくなく、完全に手付かずの密藪状態。どうなっているのだ? 入渓当初から薄々思っていたのだが、この沢は現状ほとんど人を迎え入れていない「廃墟ルート」化しているのではあるまいか。ともあれここを突破せねば、ビバークもできない。
地形的にここを行くだろうというラインにあたりをつけ、右の藪に強行突入敢行。もがきながらなんとかたどり着いたのが滝の落ち口上の立木で、すぐ次の滝が出現する中間点。次もざんざん水を吐く5メートルの直瀑だが、3本ほど太い倒木が落ち口やや下まで掛かっている。この場から更にトラバースして次を巻くか。いや、それもけっこう悪そうだ。しばし悩み、一旦懸垂で降りた。
釜に胸まではまり、右の倒木に取り付いた。がっしりして動きそうもない。勝負だ、登ろう。太い木に短い手足を無理無理に使って這い上り、木のてっぺんに立てば落ち口に届く筈と見た。そうなのだが実際は小さい体には不向きの強引な力勝負になり、半分後悔しながら全力で木の上まで到達し、落ち口右上のスラブへ上がったがそこもまだ悪かった。土付きがはげて今にも滑り、流水に落ちれば滝下まで運ばれるだろう。左へ一歩飛ぶしかないが、そこで本当に止まるか。考えているうちにも足が滑りかけ、しっかり体重をかければフリクションはきく、と自分に言い聞かせて飛んだ。止まった。
走って岸に逃げた。ようやく息を整えて先を見上げると静かに力が抜けて行った。ウオータースライダー。短いが流芯は遡上不可。流れの右に取り付くが、文字通り取り付く島もなく敗退。なんだかもう笑うしかない。幸い右岸がごくゆるい草付きで、簡単に巻いて事なきを得た。ここで渓相は上流域に達した気配。左岸にやや狭いが安定したポイントを見つけ、ビバーク決定。戦闘が予想外に長引き、4時半になっていた。
緊張が抜けると、突然猛烈な痒みに全身が襲われた。腕も顔も頭のてっぺんまで痒い。虫だ。高巻きの藪の中で煙のようにわく蚊どもにやられたのだ。耳も頬も唇もどんどん硬く腫れて行く。もがきながらテントを張り、薪を少し拾って焚き火をしようとするが、痒すぎて落ち着いて火床を作る事ができず諦めてしまう。テントに入り、中で蚊取り線香を炊いた。これでもう虫は防いだと思い、少し気を取り直して酒を飲み始めた。3時間もすると虫の毒も大分中和し、顔の腫れが引いて来た。やがて酔いと疲れが痒みに勝り、没。

 日曜朝。4時起床。5時半出発。遡行図をいつの間にか紛失したらしく、ここから先は出たとこ勝負だ。て言うか、最初からそうだが。遡行を再開し、平凡な渓相。この先にも平らな岸があり、本の記録と異なりビバークポイイントはかなり頻繁にある。と、目の前の大岩の陰から出し抜けに水音を立て獣が飛び出した。驚いて両者ともに顔を見合わせている。まだ少年のような鹿だった。体を翻すと、斜面の林へ消えた。自然の濃い沢だなあと思う。やや狭くなった沢幅を緑に覆われた両岸が挟み、倒木が網のようにはびこっている。また一頭大きな鹿が、斜面を駆け抜けていった。完全に野生の天地だ。言い換えれば、この沢はまったく人界でなく、異界なのだ。考えれば、営林小屋があり業務をしていた時は山道を整備し、人が釣り師や沢屋を含め出入りも多かったろうが、営林が業務を撤退してからこの沢は人の来る場所ではなくなったのだろう。沢を覆う倒木は、自然が自分の意思で沢の姿を変えつつあるのに違いない。逆に言えば、障害物のない綺麗な遡行しやすい渓相というのは、人工的なものなのだ。
二股に出た。右が本流らしいのだがやや細く藪が多そうで、左のほうが広く明るく遡行しやすそうだ。大概の記録も左だったはずで、ここは素直に左へ入る。もう大分奥まで来て源頭に近づいている筈だが、いまだ水量は多い。普通なら沢全体が立ち上がって河原も姿を消すのに、依然緩くしかも両岸に緑の平地だらけだ。ビバークする者などカラス天狗以外になかろうに。流れは更に奥まで続き、自分は本当にこの緑の異界を永久に彷徨うのか、と思いかけたころ、ようやく沢が立ち上がり、左に顕著な支尾根が現れた。もう流れの遡行にすっかり飽いて、靴を履き替え尾根を詰める事に決めた。
今年新調したバイルを取り出す。この唯一の相方には、ハガードの小説からズールー族の老戦士愛用の戦斧の名をそのまま拝借し、「インコシ・カース(=女族長)」と命名してある。バイルを斜面に突き立てゆっくり登って行く。女族長よ、知恵ある者よ、今度の山旅はお前にとってはどうだったのかね?
女族長は問い返す。お前自身にはどうだったのだ。宝はあったか? 何を見つけ何を得た?
そう、多分・・・下界とは違う世界を自分は歩いたのだろう。本の記録には明らかにないものを見た。それでいいのだと思う。書かれたもの以外の違う何かが、サムシングがない山登りなど自分にはまったく興味がないのだ。
汗を拭いながら獣の踏み跡をたよりに1時間強登り続け、ピークを超えるとすぐに山道はあった。人間界に戻ったのだ。栃本のバス停へほぼ3時間、12時前にたどり着いた。

戻る

Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Google Bookmarks