東鎌尾根

2000/12/28~2001/1/6
メンバー:坂口・福地・玉田・西山・中島  坂口 記


はじめに
2001年正月山行は近年稀にみる大雪に見舞われ、各地で遭難騒ぎが続発した。当会も例外でなく、CL率いる東鎌隊がこの大雪の影響を受け、予定より大幅に遅れて下山することとなった。この一件により東京では救助隊の編成など様々な動きがあり、よい意味でも悪い意味でも記録として残すことが今後の会の活動に有益であると考える。読了後、自分なら如何するか、各自参考にして、考えてみて欲しい。

発端

昨年2000年もこの山行計画は実行された。だが、様々な理由から天候にかかわらず燕山荘より敗退することとなった。下山後、ある程度覚悟はしていたが、案の定、会員からの冷やかしにあい、今年度はなんとしても突っ込もうという気概があったのは確かだ。メンバーは前回の福地、玉田古手新たに2人の新人西山、中島を加え計5名の編成となった。

記録

12月28日 (木)夜

新宿駅に23:00集合、急行アルプスにて一路安曇野へ

12月29日 (金) 快晴

穂高駅着、粉雪。まだまだ外は真っ暗だ。登山者は私達以外に3、4パーティいる。ストープのある暖かい改札で各々全員が衣類を整え、食事をする。また、登山届けをオヤジに提出する。我々はまだ日が昇らないうちにタクシーにて出発。宮城に6:00着。まだ暗いが、特にこの場所ですることもないので、早速、歩き始める。玉田、福地は運動靴で、我々は登山靴で歩き始める。この道は長く退屈で、あまりよい印象はないのだが、昨年よりあっけなく10:30に中房温泉に到着してしまった。中房一帯は一部新雪のところもあるがさして気にするほどの積雪はない。雪は多いと聞いていたがあまり気にすることはないかなと少し思う。11:00出発。踏み跡はしっかりとあるので、グイグイと高度を稼いでいく。第三ベンチより雲海の上に出る。風も微風でなんとも穏やかな日だ。16:30合戦小屋着。昨年と同じ小屋の横に整地してテントを張る。

12月30日 (土) 晴れ 風やや強し

寝坊して、5:30起床。7:15出発。トレースは昨日からのものがしっかりとついている。8:30燕山荘着。同じ方向に女性を含む5人パーティがあり常念を越えて上高地を目指すとのこと。今日の目標は大天井を越えて行けるとこまでと考えていたので、9:00時には山荘を出発する。かなりの部分を夏道で歩けるの助かる。また、トップを歩く中島のペースも速く、11:00には大天井の基部へ。頂上へ向かうパーティが2組確認できる。大天井ヒュッテへの夏の巻道にアイゼンの跡がついていた。上部を見ると北面はほとんど雪が付いていない。これならば問題ないだろうと夏道をたどることとする。雪崩の通り道であろうアイスバーン地帯を抜け西面に廻りこむ。そこから状況は一変した。ここより踏み跡はなく、ルンゼ状の部分には新雪がどっさり乗っているではないか。まったく私の判断ミスだった。、仕方なく坂口が強引にトラバースを開始する。急な斜度を股下までラッセルするところもある。さらにその先もルンゼが3、4本あり目の前のやつは雪庇をスコップで切り出さないと越えられそうもない。完全に私の責任だ。地図をよく見れば、なるほど、そうなることが予想できる地形であるこは明瞭なのに、感に頼った結果である。引き返すのも癪なので凍っているガレ場を頂上に向けて進むことにする。ルンゼの頭を越えるようにして、頂上から大天井ヒュッテへの縦走路にでた。1時間ぐらい時間を無駄にしてしまった。
稜線は風強く、そのまま休まず下降する。雪がほとんど付着しておらず、ガレ場をアイゼンで下るのはあまり楽しいものではなかった。2:30大天井ヒュッテ着。今日これから先に進むのは自重して、冬期小屋に入る。ここの冬期小屋はとても立派で、トイレまで付いていた。ここより先は全くトレースがなくなるので、小屋からの出だしの急坂部分だけ、西山とトレースを付けておく。

12月31日 (日) 雲りのち風雪

昨日からの天気予報では今日の午後より崩れてくるとのこと。1日もあまり良さそうではないとのこと。しかし、現在は風も治まっており、本日中に西岳までいければ、停滞が入っても槍へ行けるだろうと考える。7:30出発。昨日夜の降雪により付けておいたトレースはほとんど消えていた。坂口、西山、中島の順でラッセルをしながら登る。中島は、細い身体から想像できないほどの体力あることがわかった。昨日の失敗を繰り返さないために、稜線を忠実に辿るようにする。ところどころ夏道が使えるが、あまり時間を巻くことはできてないのが口惜しい。ポイントとされる赤岩岳は「ここが核心か??」などと話しつつノーロープで通過。一本だけピトンを確認した。
14:00だだっ広いケルンの積んであるピークに到着。全員が西岳頂上についたもの信じるが、小屋が確認できない。またすぐ右側に自分達より高いピークも見える。地図ではここが西岳の頂上のはずだが、そのすぐ右側にみえるピークはなんなのだろう。しばし議論をしたが、結局、視界もハツキリしないなか進むのも怖いので、風を避けてテントを設営する。かなりの雪がこの夜降った。_あまりくつろげない大晦日の夜だった。

1月1日 (月) 強風のち快晴

天気予報では二つ玉低気圧が発生してこれからしばらく大荒れになるとのこと。しかし、すでに西岳頂上付近にいることは確実で、なんとしても槍へ進もうと決意する。
8:30強風のなか出発。飛ばされそうな突風を避けつつ進む。となりのピークはやはり西岳頂上だった。取り敢えず小屋まで下降して冬期小屋に入る。小屋というより単なる通路でとても5人は入らない。天候は回復しており上高地側は日が差しており視界もよい。このまま赤沢山から槍沢一の俣に降りられるのではと地図をみながら思ってしまう。もしこの尾根で降りられると聞いていれば、確実にここで下山を開始しただろう。
9:45出発。槍を目指す。水俣乗越に12:00までに到着しなければそこでストップとみなに告げた。天候は予報と異なり快晴微風となってきた。西岳の下りは西山と私で先を歩きつつ2回ほど懸垂をする。シュリンゲがかかっているので
ルートは外していないようだ。東鎌のリッジでは中島と私でトレースを付けるため先行する。ロープが欲しいようなナイフリッジも中島は脛までもぐりつつポーカーフェースで進む。もしかしたらヒュッテ大槍まで楽勝かもなどど思ってしまう。結局13:00に水俣着。夏道の3倍の時間が必要となっている。天気があまりにも安定しておりこのまま進むことにする。ただそのうち各自も疲れからか隊列は先頭とラストで80メートル程度開いてしまった。よくないことは重々承知しているが、中島のスピードを止めることは行動上最も嫌なので、中島が疲れるまで飛ばしてもらった。途中1回懸垂をし、長い梯子を下るなど、ナイフリッジが終わり、ようやく登りの鎖場(埋まってますが〉が始まるところで、大休止を取る。西山にトップを歩いてもらうことにする。もうヒュッテ大槍はこの上だろうし、槍ヶ岳山荘もバッチリ見える。相変わらず天気は快晴微風である。また隊列が長くなってきた。みなの疲労度も増しているようだ。3:30に緩いリッジ上にテントを設営することにした。この日は快適な夜であった。

1月2日(火) 風雪強し

翌日は未明より天気が一変した。明け方ポールを-本破損するが、そのまま朝を迎え、5:30に起床する。朝食をとり外へ出ても視界まったくなし。眼鏡も凍り付きリッジと槍沢への空間との区別さえ付かない。停滞を早々と決める。雪を深く掘りなおしテントを再設営する。

1月3日(水) 風雪強し

昨夜はほとんど眠れなかった。テントが強風により壊されることが心配だったので、ザックに個装をすべて入れさせ、靴も足元に置かし、何時テントがつぶれても外に出れる体制でシュラフに入ったが、ポールは今にも折れそうで、全員で突風がくるとそれを押さえた。それでも、明け方さらに2箇所が折れて使い物にならなくなった。フライは止めておいたピッケルから裂けたのかどリビリにやぶれ、本体もポールの折れたところから裂けてしまった。天気は昨日同様変わらないので雪洞を掘ることとする。稜線なので横穴を掘っても岩やハイ松が出てくるのには閉口したが、福地のアーミーナイフのノコギリでなんとか切断し、3時間後5人がなんとか横になれる雪洞を掘り上げた。雪洞に入るとこれで死ぬことは無いだろうと妙な安心を感じる。夜、食事は長期戦を覚悟してジフイーズ2食を5人で分ける。ガスはこの時点で2缶と少しなので暖を取ることへの使用を止めた。東京も心配していることだろうと玉田の無線で原村在住のアマチュア無線家にリレー交信をしてもらう。

1月4日 (木) 風雪強し

また今日も天気変わらず。天井が少し落ちてきたのが気になるが、この穴にいる限り命の問題はないだろう。それより燃料と食料が少なくなってきており、今朝もラーメン2食分を5人で分ける。ランタンは使用できないので日が沈む前にまたジフイーズ2食を食べる。すでにラジオではこの天候は6日まで続くと言っている。東京と交信すると小屋が営業していることを知る。無理して辿りつけばなんとかなるのだろうがとても悩まされた。明日動けなければ、ヘリでピックアップを要請する。疲労感もでてきており、そのほうが「安全」と判断したからだ。

1月5日(金) 風雪強し

残っていたドーナツツ1個とチーズかまぼこ1つを食べる。また、お茶を少しだけ飲み朝食とする。今日も停滞ムードが漂う。天気はさして回復していないが視界は若干昨日よりはよい。決断にとても苦慮した。眼鏡も凍らないので8:30、取り敢えずヒュッテ大槍まで進むことを決意する。無線でその旨を伝え出発する。トップは西山が進むが、疲労しているためか調子が悪そうだ。風雪は上へ向かうほど厳しくなってきた。途中より坂口がトップを歩く。ホワイトアウトしているので、現在地は確定しないが、感をたよりにゆるやかな尾根を越えるとヒュッテの屋根が目に飛び込んできた。10:30。冬期小屋を探すがここにはなかった。情報収集ミスだった。しかし、ここまでくると気合が入っていた。槍まで行こうと福地から声が上がった。全員休むことなくすぐ出発する。中島がトップを歩く。千丈沢側に気をつけながら風雪の中を進む。ところどころ夏道のマーカーを見つけながらなるべく槍沢側を歩くようにする。アイスバーンのためラッセルをしないで済むのが唯一幸いである。風雪はさらに厳しくなってきた。とくに風がすさまじい。夏道が左に大きくトラバースをして、前方には梯子も確認できる。ルートはかなりの斜度でアイスバーンとなって延びている。ここを通過すれば…と思う反面、この先もまだ、なにも確認できなかったら・・・と内心焦りが出てきていた。坂口リードで50メートルいっぱいトラバースをして、梯子でビレイした。ここを過ぎると槍沢の上部カールにでた。アイゼンを慎重に蹴りこむ。ガスの切れ間に小屋が見え隠れした時、思わず助かったと思った。西山はかなり疲労厳しく、最後は足が進まない状況であった。

1月6日(土) 風強しのち晴れ

8:30小屋を後にする。腹いっぱいの食事と十分な睡眠で元気が戻ってきた。西山の手足の凍傷はどうにか一度程度で済みそうだ。あれでガスに巻かれていたらどうなっていたかと思うとぞっとする。大喰岳への登りも風強く、やはり眼鏡がよく見えない。なんどもミトンで擦りながらようやく頂上へ到着。コンパスで方向を確認しすぐ下山を開始する。唯一眼鏡を必要としない玉田に先頭を歩いてもらう。尾根の中腹でようやく強風も治まってきた。宝の木に到着する頃は快晴となり、旅の終わりを感じさせた。救助に忙しいヘリの爆音の下、代わる代わる腿までのラッセルをして進む。
裕さん達のサポートは、もう我々の状況を理解してたぶんのんびりと向かっているだろう。それでいいではないか。様々な思いをみなが感じながら黙々とラッセルをしていく。11:00。私の番になった。緩やかな斜面をグイグイと泳ぐ感じに進む。向こうに人影が見える。裕さん達だ。常さん、美香ッチ、飯田さんの顔も見える。早く早く彼らのところへ行って、この真白の雪原に両側から引かれている線を一本に結ぶのだ。

1月7日(日)

昨晩は東京から松元、宇賀田、桜井の各氏。それに無線番をしてくれた伊平さんを加え、民宿で祝杯を上げた。なにか嵓にいることの別の感動がこみ上げたものだ。あまりカッコのよいことではないが単純にみなの行動がうれしかった。車に分乗して東京へ。いろいろご心配をお掛けしました。

ひとつのいいわけ

今、自分の書いたもの読むと「なんだ、たった3日間停滞しただけじやないか」と思う。たぶん、東京にいた人たちはそう思ったであろう。でも、我々は、心理的に追い込まれていたのである。テント全壊冬、東鎌の稜線上でこの状況に追い込まれるということは全く想像していなかった。
天候回復の見込みが全くたっていない。
天気予報、気象通報は聞くたびに悲惨で、わざと危険を強調するために言っている事が余計拍車をかけた。特に12月31日夜からはめまぐるしく情報が変わり、1日は逆によく、これにだまされた。
食料、燃料の予備が無くなっている。
我々はガスカートリッジ10缶、予備食2泊分をもったが終盤に停滞をしたため、最後は厳しい食料となった。

以上のような要因とヘリさえ来ればすぐ帰れる(会社の問題等)などから東京にはヘリの要請を依頼した。ところが、無線で戻ってきたニュアンスでは、そうやすやすヘリの要請はしない。なんとか槍まで行けというふうに受け取った。それでも、たとえ着いたとしても、もし登山者がいない場合、飛騨沢から新穂高までひどいラッセルが必要で、結局、日数がかかり食料切れるジャン、やっぱりへんに動かないでピックアップされたほうが合理的とも考えた。今回の山行は技術的などでなく、隊の行動シュミレーションをいろいろ考える山行だった。よい勉強になりました。いろいろお叱りの言葉もあろうと思います。是非ご意見下さい。

メンバー諸氏よ、この年の正月山行で東鎌尾根に成功したのは嵓の我々だけでした。
胸を張ろう!

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