やっと手中に収めた3ルンゼ

1998/9/19
メンバー:松元・桜井  松元 記


この1ノ倉沢3ルンゼを攀ろうと思い立って、早20数年もたってしまった。4ルンゼ、6ルンゼ、2ルンゼ、5ルンゼと攀って行くうちに、自然に3ルンゼの番に来てしまった。
20数年前のある年の10月、3ルンゼを攀り、蓬峠経由で白が門まで縦走するという計画を立てた。ところが前日、今ではもう定かではないが、何かの事情で私は3ルンゼに行けなくなってしまったのだ。帰ってきた彼等は、「松元さん3ルンゼには行かない方がいいですよ。なんせ第一関節の半分しか掛からない登攀が、ずうっと続くんですから」という。
今では攀ってしまえば簡単と言い、当時は自分の評価を上げるため、最高に難しいの連発である。その為かルートを徹底的に研究し、困難・危険を覚悟して挑んだものだ。今はどうであろうか、(私)何も研究せず、朝出発の時、行くルート図をチョイト見るだけ。後はエテ公の様に綱に引かれて行くだけ。帰ってきても自分が撃ったルートをあまり理解して無いのが現状である。でも本人に言わせれば、「何処でやっても、危険も困難も同じ、でもやる時はやるよ」。
話は横道にそれてしまったが、それからが、3ルンゼとの戦いである(大げさ)。約20年、何回行っただろうか、10回は行ったはずである。体調が優れなかったり、夢見が悪かったりしたが、やはりほとんどが天気が悪く、出合・本谷バンド・F滝の上で敗退。
その間、写真を見たり、登った連中の話を聞いたりして、自分なりに3ルンゼのイメージを作りあげてしまった。滝は濡れており、ホールドは細かく垂直で、しかも草付きはルートが分からず(裕二郎談)、90度の草付きでブッシュにぶらさがって登る(坂口談)等など。最近は3ルンゼに行くには、それなりの覚悟で望まなくっては、ところがそれなりの覚悟が出来なくて2年位前から、ボチボチあきらめていた。5年位前までは、3ルンゼに攀りに行く話を聞くだけで、本気に怒ったものだ「3ルンゼは、俺が攀るまで会では攀っるのはいけないのだ」。

某月某日
本日の我々のルートは、7年ぶりに雪が消えた本谷を、本谷バンドまで攀る予定である。すでに南稜・中央カンテ・中央稜パーティは出発した後であるが、のんびりと桜井と一ノ倉の出合を出発する。ヒョングリを右より越えていると、裕二郎の凹状パーティが追い付いてきた。我々は本谷に向かうが、水量が多く濡れる覚悟が必要であるが、残念ながら本気の覚悟が無い為に、テールリッジを登り、本谷の後半いわゆる4ルンゼを攀じる事にする。桜井が4ルンゼを始めてであるとは以外であった。
今から40年前、始めて一の倉に入って、攀じったルートがこの4ルンゼである。当時は丹沢の水無しから始め、西丹沢で腕を磨き、三ッ峠でテクニック学び、更に鷹取で最終の人口登攀を習得して始めて一の倉に行けるのである。この間約2~3年かかるのである。そして、正会員になりナンバー入りの会のバッチを会長より、拍手の中重々しく受け取るのである。
当時の-ノ倉の登肇は、麻のザイルを肩から担ぎ、本谷バンドでわらじに履き替えて攀じるのだが、今と違って確保は無しでノーザイルで稜線まで抜けた。金が無かったせいか、残置ハーケンを見つければ、抜いてきて次回の登攀に使った時代だった。
そして汽車が混むという事で、下山は土樽までこれが当たり前の一の倉行きの定番コースであった。
さてさて、昔の思いで話はこの辺にして、本題に戻そ。
中央稜の取り付きに着くと、既に中央稜パーティの坂口・和智組は1ピッチを攀り終えていた。中央カンテ組も、星山が1ピッチを終え、聡と前田が攀り出していた。南稜テラスには誰も居らず、山本武組の姿も見えない。のんびりとしたくに取りかかりアンザイレンして私から本谷バンドに向かう。またまた昔話であるが、この南稜テラスからぶる下がって降りる岩に水晶が生えており、よく手を切ったものである。
こちら側には中央壁にYCCの1パーティ(上部草付きで合流)と我々だけであり、落石の心配もなく、静かな岩場である。この本谷バンドに来るのは何年ぶりだろうか、3ルンゼも裕二郎と坂口が攀ってから、どうでも良くなり執念の糸が切れ、縁が無かったルートとしてあきらめてしまった。それ以来不思議なくらい3ルンゼを攀じりたい気持ちが失せてしまったようだ。本当に久し振りの本谷バンドである。
4ルンゼ・3ルンゼに行くには、まずF滝を越えなくてはならない。F滝は右に行くほど難しくなり、一番左が楽勝ルートである。昔このF滝の真中をノーザイル登っていたなんて信じられないが、今では桜井にザイルを張ってもらってヤット攀る状態である。
4ルンゼFl、ここは微妙なバランスと吊り上げで乗り越すが、絶対的自信を持っていたので、今回も挑戦するが、ランニングビレーも取らず、難なく通過(階段状)してしまう。F2ここは核心で右の側壁を斜めに上がって滝の上に出る。ところが、赤いマーキングが左に付いている。「おかしいなあー」過去4~5回来ているのに、間違い無く右なのに。私の記憶よりマーキングの方が正しいだろうと結論付け、桜井に攀ってもらう。左のリッヂを攀り、そのままF2の落口に出られるかと思ったが、出られづどんどん3ルンゼ側によってしまった。次のピッチはそのまま私がトップになり、残置ハーケンと赤いマーキングに導かれ、どんどん攀って行くがどうも変である。 左のルンゼに入った様だ。このルンゼから右のリッヂを乗越て4ルンゼに入るのかも知れない。だがこんなルートは無かったはずである。最近ボケがひどくなってきたが、過去の事は鮮明に覚えているものだ。50m一杯攀って桜井に来てもらうと、「松元さん、これは3ルンゼのF2ですよ。ここまで来たことがあります」。私もF2まで来たことがあるが、今までの所がまるで記憶がなかった。「どうしますか?降りますか?」「いいよ、行っちゃおう」と不思議な位、3ルンゼを攀ぼることに、気持ちが抵抗なくすんなり答えが出た。
F2・F3とがこの3ルンゼの核心である。F2は流水越しに攀じるのだが、残置ピンも豊富で本当にこれが核心かと疑う。F3の手前でYの字のマーキングが表れた。このYの字は右でも左でも、どちらかでも登れるマークだ。我々は右のルートを取る。最後の落ち口に出る手前の右に1mのトラパースが悪く、一瞬ヒヤーとした。
後のF4・F5は簡単な50mのスラブが続くだけだが、桜井は親切にもビレーをしてくれた。スラブが終わり草付のテラスに出た所、YCCの中央壁パーティと合流。「遠藤さんの会ですか」なんて言われると、「ぱかやろー、ふざけんじやなえよ」「代表はこいつで、会長は俺だ。遠藤はたかが一会員だ」と罵りたくなるのだが、やはり遠藤には何かとかなわないのが現状だ。
さて草付はどちらに行くか、裕二郎にトランシーバーで問い掛けるが、「我々は間違ったルートに行ったので、正規ルートは分かりません」と冷たくいなされる。
良く見ると草付の中の露岩にもマーキングがあるではないか。マーキングに導かれて草付に入るが、坂口の言うように垂直の草付である。本当の草で無く、熊笹な為全体重をかけても抜ける心配が無い。息を切らせ熊笹にぶるさがりながら攀のだが、爺にはこたえる。YCCの若い彼等に「もう空が見えているから、すぐですよ。がんばって下さい」と叱咤激励されながら、稜線直下5m下まで来たところ、「松元さん先に攀って下さいよ」と桜井が花を持たせてくれる。うれしいものである。
ついに出ました、稜線に。稜線から見下ろす3ルンゼは、本当に垂直に切れ落ちていた。何回と無く、ここからのぞきこんで「こりや駄目だ」と何時も思つていたが、とうとう3ルンゼが終了したのだ。稜線に出た時感激のあまり、恥ずかしながら、ついつい涙を落としてしまった。
思い起こせば17歳の時に始めて4ルンゼを攀って、55歳にしてやっと、2ルンゼ・3ルンゼ・4ルンゼ・5ルンゼ・6ルンゼが終了した。言いかえれば38年もかかって、やっと攀れたわけだ。どっちかと言うとだらしが無いのかもしれない。でも、しょせん岩登りなんか頼まれて攀じる訳でも無いし、自己満足そのものである。
さてさてのんびりしていられない、早く下山しなくては暗くなってしまう。稜線まで出てしまうと、同ルート下降も出来ないし、他の下降ルートも無い。結局は西黒を下るしか方法が無いのだ。「まあ、急ぎ旅でないし、最良の登攀に酔いながら、ぼちぼち降りるか」。不思議なもので桜井が入会して10年以上はたっただろうか?2人だけで行動をしたのが今回が始めてである。西黒尾根と巌剛の分岐で日が暮れてしまい、中央カンテ組(聡・星山・前田)は南稜の終了点でビバーク、凹状組(裕二郎・加藤・高橋)もビバークとトランシーバーに入って来た。驚いた事に高橋は彼氏に「今日は帰れない」と電話で連絡してくれとBCに頼んでいた。
我々もバテバテで8時にBCに到着。3ルンゼ完登の美酒に酔いついにダウン。

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