洞のなかの懲りない面々幽の沢 石楠花尾根

1997/3/8~9
メンバー:鈴木直・杉浦・坂口・常世田・伊平  坂口 記


朝5時、雪洞を出るために身支度を始める。かがんでいないと頭が雪面についてしまうので、寝そべりながらシュラフカバーを脱ぐ。予想はしていたが、疲労と寒さと不安のため、あまり眠れなかった。昨日からの吹雪のため、入口に取り付けたツェルトは雪の重みで内側に深く垂れ下がっている。これが破れたら、大量の雪がこの狭い空間にいっきに流れ込むだろう。
目前の雪に締め付けられたツェルトからの鈍い光を頼りに雪洞内でパッキングをする。午前6時。まず、私が外に出るべく、重いツェルトの隅を押し上げる。かなりの重量を感じるが、なんとか外光が射してきた。はたして天気は回復しているのだろうか。一人がすり抜けられる大きさまで開くと、逃げ出すように外に這い出る。密閉空間から開放された安堵感があった。立ち上がると、物凄い風の強さによろめく。そして、驚愕!なんだ!我々がいるところは、そうだったのか・・・。東の空には荘厳な太陽が今、まさに上がったところで、この風も太陽熱が寒気を押し流しているためだろう。昭ちやんも這い出てきた。風によろめきながらも二人で歓喜の声を上げる。これで東京に帰れるのだ。そして、こんな「荘厳」な夜明けを見れたのだから、会社を無断欠勤したのも悪くないと思った。
風が治まるのを予想して、7時まで雪洞で待機する。雪に埋まった外に置いておいた装備を完全に掘り起こせるかが気がかりだ。午前7時、行動を開始する。案の定、風は弱まり、春山の気配が感じられるまでになった。

ベータルンゼ目指して

ナイフリッジの手前でかなり待たされた。我々5人(鈴木直、杉浦、坂口、伊平、常世田)はもう二時間近く、停まっている。私は一人先行で、リッジ下のブッシュに立っているママだ。途中「氷のガリー」が見つからず、後から来た新保さん達4人に追い越されたが、ここでは先行を追い抜くことができない。ようやく2時過ぎにリッジに突入して、ピナクルまでザイルを伸ばす。雪がないのでピナクルの頂はテラスのようになっている。新保さんがブッブツ言っているのを聞いてみると、どうやら前組がここで手間取っていたらしい。昭ちやんが来た。時間もないのでここから降りようという。しかし、私は反対した。このリツジを降りる方が危険である。稜線に抜けてしまった方がそれよりも安全だ、と。
結局、ザイルが1本であることと、情けないが、先行に新保さんがいることが大きな要因となって、前進を決めた。無線でその旨を木元さんに告げ行動を開始する。残った三人はリッジに取り付くことなく、時間を考慮して下山する旨のコールを伝えてきた。
ブッシュ交じりの雪璧を昭ちやんがリードし、リッジ上部でアックスビレイ。そこから坂口が2ピッチザイルを伸ばすと夏に見覚えのある露岩の下に着いた。わりと呆気なく石楠花尾根は終わった。先行を追いかけるように堅炭尾根稜線にむけて雪璧を登る。もう安全圏にいる錯覚があって、足取りも軽かった。結局、4時過ぎに我々は稜線に抜けた。
さて、新保さん達の姿は見えないが、彼らの潜み跡をたどれば、ベータルンゼも簡単に見つかるだろう。今日中に指導センターに戻れるメドがたったので、軽く食事をする。西側から風が出て来ており、視界も良いとはお世辞にもいえない。腹ごしらえを終えて、そそくさと出発する。路み跡はハツキリとしてないが、それでも複数の足跡が堅炭尾根を下降している。右側を覗き込みながら、下れそうなところを捜すが、どこも急峻でとても下れそうにない。20分近く歩いたろうか。わりとゆるく大きなルンゼに出た。ここでふみ跡も終わっているのだが、この雪璧を下った踏跡がない。困った我々は思案したが、結局、ここしか考えられないと判断して下降を始める。最初はよかったものの、遂にダブルアックスでないと下降できないまでの科度となった。石楠花尾根から望むノコ沢上部は尾根の岩峰直下からすぐ緩やかな尾根が望めていたし、まだ7、80メートルはこのままの体勢で下降しなければならない。ノーザイルでこれ以上下ることに恐怖感が募り、はるかに先行する昭ちやんにその旨をつげると、昭ちやんもこれ以上無理して突っ込むことに不安を覚えていたのか、あっさりと、もどりましよ、ということになった。途中で伊平さんに無線でビバークになった旨を伝える。

ビバークの夜

疲労感が重く圧し掛かって、堅炭尾根稜線に戻るまでかなりの時間がかかってしまった。風はさらに強くなっており、雪も混じってきた。仕方なくビバークの準備をする。ルンゼを登りきった稜線よりやや湯桧曽側に整地をする。雪面をカッティングする程度で止めてしまった。あたりはすでに夜の到来で、へ電を灯してツェルトを張った。ようやく二人が入れるだけのスペースを確保したが、風が強く、まともに夕食も取れない。稜線より雪が流れてきており、ツェルトのなかで山側にいる私は雪に圧迫されはじめた。明日の天気次第では行動ができないかもしれない。私たちは三つの案を議論した。雪がこれ以上強くなければベータルンゼを再度見つけて下降する。二つ目は堅炭尾根から一の倉岳を経由して、西黒尾根を下る。三つ目は堅炭尾根を直接、茂倉沢出合まで一気に降りる、というものだった。
しかし、どれもこれも天気が悪ければ話にならないが、それでも確実と思われるものは二番目の案だったので、最悪それにしましよう、となった。夜、完全に吹雪となり、私は体さえ動かせないほど雪に締め付けられた。無線を一晩中開けていたが、ノイズ以外
何も聞こえてこなかった。
翌朝、夜明けを待って行動を始める。簡単な食事をとり、出発する。稜線の積雪はくるぶし上くらいだ。視界も悪く、50メートルといったところ。こうなれば迷うことなく稜線経由の案を採用する。途中も注意して捜すが、もうベータルンゼはまったく判断できない。仕方なく尾根を忠実に一の倉岳を目指す。時折くる突風と、ブッシュに足をとられヨロヨロと進む。無線がようやく通じ、尾根経由で帰る旨を伝える。それだけでもかなりの安堵感を覚える。下の仲間達も心配していたことだろう。申し訳ない。帰ったら、何といえば良いやらと考えながら歩いていた。
登るにつれ、風雪は強まっていった。左側には雪庇が張り出しているので、あまりそちら側にはよらぬよう注意しながら進む。途中、稜線上で2度程視界ゼロとなったのでストップして、ツェルトに包って待機した。尾根から緩やかな雪原のようになった。一の倉岳
への上りとなったようだ。それは地図上と一致する。しかし、不安であることには変わりなく、なるべくまっすそ進むが、足を取られるのでやや右上する感じになった。視界はまったく得られず、ただ機械のように前に進んで行く。人も踏み跡もないこの空間は白い迷
路にはまり込んだようだった。
午前10時頃、小ギャップを乗り越えると傾斜の方向が変わった。我々の爪先は下を向いている。さて、ここは一体どこなのだろう。稜線かも知れないが判断材料もなく、視界がゼロなので判断の下しようがない。風雪も懐から殴り付けるように吹き付けるので、そこにひとまずツェルトに入って作戦を立てる。バタバタと風がうるさいが、お茶を沸かしながら、煙草をふかしてると何となく悲壮感の中に安らぎがある。やはり無線はバッテリーが切れたようで、ウンともスンともいってこない。電池であれば持っているへ電から取り替えることができるのに。・・・・・。一時間は停滞していただろうか。幾分視界も良くなったと判断して、ツェルトをたたむ。しかし、状況は変わらずで、1。メートル程度進んでまたツエルトに入った。
時間ばかりが無駄に経過して、頭に今夜もビバークすることがちらつきはじめる。会社のことを考えるともっと深刻になる。つくずく自分が「社畜」となっていることが情けない。昭ちやんとは事態打開のための方策をいろいろ議論したりしていたが、同じ話の繰り
返しでどうしようもない。とにかく、ここがどこであるかだけでも判断つけば行動を再開できるのに。午後1時、この場所は風があまりに強いので、小ギャップ下に降りて、小さな雪洞を掘り、ツェルトに入る。そして、午後4時、ビバークを決定した。
ビバークが決定した事についてはお互い納得していた。この時間から下山を開始しても、明るいうちには絶対的に指導センターには着かないというのが決意させた直接的な要因である。そう決まると、いかに快適な雪洞を掘るかが問題だ。幸い二人とも思ったより元気なので大きなものが作れそうだ。まず、小ギャップの横腹に二人で穴を掘りはじめる。奥行きが1メートルに達したところで、このまま掘り進んだ後、内側上部を削るには積雪が物足りなく、落盤する恐れがあるため、斜め下側に向かって掘り進む。こうすると、奥に進むに連れて、雪をかき出すのが難しくなる。かわるがわる穴の中へ入って作業する効率も悪く、日暮れ近くまでかかってしまった。洞の大きさはたて約1メートル、よこ約1.2メートル、奥行き約1.5メートルである。まるでモグラの穴みたいだ。入口をツェルトで覆うがどうしても風と雪の進入を防ぐことができない。結局、自然の力に任せて、雪に密閉されることとなった。最初は窒息死の原因になるかもしれないと思っていたが、最後はどうでも良くなっていた。明け方、胸が締め付けられる痛みを感じたのはこれが原因かもしれない。
さすがに雪洞の中は、風雪とは無縁で、EPIをつけるとヤッケを脱いでも十分に耐えていられる。ただ、ボンベもひとつしかないので、食事(ラーメンを半分ずつ)をした後、EPIは消してしまった。お互い寒いと宣言したら点火しようということにした。これがつまらん意地の張り合いとなり、結局、朝まで点火せずにお互い寒さに耐えてしまった。さて、このような状況下での沈黙は多分に滅入る。昭ちやんと話している時はよいが、無言になると悪いことしか頭に浮かばない。下界では仲間たちが心配していることだろう。変に気を遣って大事になっていなければよいが・・・。さらに、特に私には「会社」無断欠勤することへの罪悪感が大きく圧し掛かっている。ただでさえ、私のわがままを聞いてくれる「良い」上司なのに、こんな形で心配をまたかけるとは・・・・・。ウトウトし始めると、寒
さで目が覚める繰り返しで時間は過ぎていった。

天気快晴

どれそらい寝返りを打っただろう。時計では午前5時を廻った。外の状況は、この雪洞の中ではまったくわからない。昭ちやんも目を覚ましているようだ。取りあえず二人とも起きて、身支度を始める。手先足先は十分感覚はある。どうやら凍傷にはどこもなっていないようだ。狭い穴なので、二人で動きはじめるとぶつかり合ってしまうので、一人ずつかわるがわる整えた。ビスケットを二・三枚口に入れ込み朝食は終了、午前6時まで待機する。密閉された雪洞の中で、外の状況を思うと二人とも不安になるが、まだ、二人で無駄口を言い合っていられるのは唯一の救いだ。
6時になって、まず、坂口が外に出るべく重いツェルトを両手で押し上げる。重量上げ選手のようだ。昨晩の雪と小ギャップから流れ落ちた雪がツエルトの上に乗っかっており、かなり苦労する。ツエルトもよく破れなかったものだ。ようやく隅から外気が流れ込み、外を覗き込むが、真っ白なままである。そう、まだ雪面が見えてるに過ぎない。気を取り直して、その穴を突破口に這い上がる。よろめく程の強風と太陽光。夜の闇から姿を現す山々達…。昨晩からの重圧はこの瞬間、吹き飛んでいった。この景色は、どんな芸術家でもちょっと文章や写真で表現することはできない。それくらい「荘厳」なのだ。這い出て来た昭ちやんもそれは同じだろう。そして、ようやく自分たちの位置をしっかりと確認する。そう、ここは一ノ倉岳頂上なのだ。避難小屋も道標も雪に埋もれて見当たらないが、何の疑う余地なく、ここは一の倉頂上なのだ。昨日、小ギャップに感じていたのは、稜線にできた雪のヒダだったのだ。
風が治まるのを待って、午前7時に出発。輝く太陽光を眼前に浴びて、我々はオキの耳に向かって歩く。足取りも嘘のように軽く、すれ違った2パーティに昨晩の谷川岳頂上避難小屋の状況を聞く。かなりの数の登山者が下山できず、今朝、降りていったようだ。
我々はさらに歩速を早め、8時に小屋に到着する。かなりの数の足跡が雪面についている。なんだ、みんな同じじゃないか。そう思うとビバークは正解だったのかも知れない。誰もいない小屋の前で、我々は、このすばらしい雪山の景色を堪能すべく、大量のコーヒーを作り、レーションを食べながら、素晴らしいひととき方過ごした。
頂上には一時間あまりいた。午前9時、ロープウェイ駅にむけて、道が開いた天神尾根を下る。天気は相変わらず無風快晴で、まるで春山のようだ。西黒尾根を下ってもよいのだが、一刻もはやく人の臭いがするところに近ずきたかったので、迷わず意見は一致した。途中、谷川岳千回登山をしているおじさんと挨拶を交わした。おじさんに「それはすごいですな~」といわれると、こちらもなんだか照れる。ヘリコプターが爆音とともに頭上を旋回する。我々を捜しているのだろうか。もしそうだとしたら、ちょっと大袈裟すぎる。
スキー場までくると群馬県警がいて、天禅尾根で迷った人を捜していたのこと。その人も無事見つかりヘリに収容されていった。このころより二人とも空腹感を覚え、進まない足を引きずって、まるで敗残兵のようにスキー場を下る。
スノーボーダーがカラフルなウェアを身に纏い、とても楽しそうだった。同じ青春でもずいぶん我々とは違うな、とか思う。ようやくロープウェイ駅に到着。11時前だった。
財布を持っていてよかった。やはり、文明の力は偉大なり。約7分間、ゴンドラの中でボッとしているだけで、遂に「下界」に帰ってきた。
「下界」では春の兆しが所々に芽吹いていた。ここは今、ゆるやかな時が流れている。昨日の我々の取り巻く状況とここではあまりにも異なりすぎていた。疲れた足取りで、もうだれもいないであろう指導センターに向かう。案の定、指導センターはガランとしてい
た。一昨日は人でごった返していたのに、今は我々のデポ袋が板間の上に置いてあるのみだ。一抹の寂しさを感じた。もしや誰かが待っていてくれるかもしれないと、ふてぶてしく少しは思っていたのだ。冷静に考えれば、みんな今日は仕事もあるし、たった一日で遭難騒ぎをするのも大袈裟だし、これで当然だろう。そう思いながら荷物の整理を始めた。
しかし、私達は、見つけたのである。それは、別次元だけれども今回の山行の中で最大の感動を与えてくれた。それは達成感や充足感だけでは語れぬ山の大きな要素のひとつだろう。そこにはビールのロング缶と稲荷寿司と即席鍋のセットが二つずつ、そしてメモがひとつ添えてあった。木元さんからのもので、五時まで待ったが、取りあえず今日のところは帰る。下山したら、松元・桜井・木元にすぐ連絡するように、と記されていた。山そのものの楽しさも重大だが、こんな人間臭い出来事も大切だ。さて、これ以上の豪勢なもてなしがあろうか。みなが置いてくれていったごちそうを食べながら、ふたりで祝杯のビールを一気に飲み干した。

後記

その折は、皆さんに大変ご心配をおかけしました。また、ありがとうございました。
社会人クライマーとして冬山をやっていると、今後も同じケースにみまわれる人がいると思われます。「予備日」はサラリーマンにとって、取りたくても取れない状況というのが正直なところではないでしようか。
また、なぜ途中で引き返さなかったのか?なぜ無線が使えなかったのか?なぜベータルンゼが見つけられなかったのか?等の指摘はありがたく拝聴いたします。

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