南アルプスシレイ沢事故報告

1997/7/20~21
山行メンバー:山本裕・相原・高村・福地  山本裕・松元 記


事故報告その1 山本裕 記

山行装備:9mmロープ×2、タープ

事故に至るまでの状況

19日夜12時:新宿に集合
19日の深夜(2。日午前2時頃):車にてシレイ沢出合に到着。テントを装り3時前に就寝。
2。日8時:朝食をとり出合を出発。
9時3。分:ゴルジュの2。M滝を登攀。
11時:潅木帯の先の12M滝を左岸から高巻くためノーロープで相原、高村、山本、福地の順に進んだところ、滝の真上で相原君の草付きが崩れて滑り出し、そのまま滝を尻から滑る状態で滑落して滝壷まで落ちた。後から考えると高巻きはトラバースしたところよりもう一段上の踏み跡を行くのが正解だったようだが、そこから滝の抜けロまでほんの致メートルしかなかったので何とか行けると思ったとのこと。

けがの様子と応急処置

速やかに残った3人は巻道を降りて相原君の所に到着。相原君は滝壷の水たまりに尻餅をついた状腰で話しかけるとすぐに返事をしたがかなり痛がっていた。本人の申告によりけがは右足の骨折らしい。滞れた服を脱がせてみても他の部位でおかしな所や出血などはなかった。
本人は意識ははっきりしていたが、顔面は蒼白で激しくふるえており、ショック症状が出ているようだ。充分な保温と骨折部位の固定が必要と判断して右足に銀マットを巻き、木の枝2本を添木としてテーピングで止め、本人をシュラフにいれた。現場は水しぶきのかかるところなので滝壷から1。M程はなれた小さな台地に移動して本人を中心にいれてタープを張った。
その状態で相原君に調子を尋ねると寒くはなくなり、動かさない限りは足の痛みも少ないとのこと。(11時から12時まで)

救助方法に付いての検討

3人で何とか降ろしてしまうと言う意見もあったが、骨折と内出血の程度が分からず、無理に動かしてはまずいと思い断念。他の入渓パーティーの協力で降ろすことも考えたが、当日は先行パーティーもなく、12時になっても後続パーティーに出合わなかったので期待は出来ないと考えた。結局誰か一人が下山して東京にいる会のメンバーと、会山行にきている北岳バットレスのメンバーとに連絡して救助を頼む事に決めて山本が下山する。(12時)

救助隊出発までの経過

PM1時半頃に出合に到着。広河原アルペンプラザより電話で松元さんに事故を報告。松元さんのアイデアで、会山行のために貸し出していたバジェロ(在広河原)を合い鍵で開けて、車載の無線機で白根御地の北岳パーティーと連絡を試みる〈2時15分~同45分)が交信できず。
3時に広河原アルペン。プラザより白根御池小屋を無線で呼び出してもらい、小屋の人に当会のテントを見つけて救助要請の伝言をお願いする。
3時過ぎに再度松元さんに連絡。東京からは和智さんと松元さんの2人しか出れない事、今出ても広河原到着は8時頃だろうという事、救助には北岳パーティーの協力が必要で何とか連絡すべきだと言う事を打ち合わせる。
無線交信出来ない点や会山行計画から想像して、その時間に白根御池に会の人間はおらず未だルートに取り付いている可能性が高い事、御地小屋が繰り返し当会を探してくれるかとうか分からない事、東京の2人は8時頃まで来れない事などから白線御池に迎えに行く事にする。(4時)
大樺沢から御池小屋に至り、〈6時半)小屋番から当会のパーティーとは既に連絡が付き、尾根道から下山していた事を開き、すれ違いになったと気づき尾根道を降りて追いかける。
下山途中、山本武さんと清水さんに追いつき、携帯無線をもらう。山口さん、常世田さん、伊平さんがかなり前に降りていて広河原で山本を探している事を知る。
8時頃山口さん達を捜しながらシレイ沢出合に、に到着したときにほぼ同時に松元さんと和智さんも到着する。松元さんは相君の両親へ相原君が沢で滑落して骨折したが無事であると話したそうだ。
出合いからの無線で山口さん達と交信がついた。広河原に降りて山本が居ないため山本はシレイ沢に戻ったものと考えて、後を追ってシレイ沢に入っているとの事。ルートが分からないため、ゴルジュの入口で左岸の跨み跡から枝尾根に上がったところで日暮れとなり、ビバーグするとのとのこと。
その夜は北岳バットレスのパーティーは全て広河原に降りてもらい、広河原山荘でテント泊。夜中に到着した杉浦さんと松元、和智、山本はシレイ沢出合いで寝た。

救助パーティー

シレイ沢出合待機パーティー:田島寛、山口節、高橋、清水
救助隊:松元、杉浦、和智、山本裕、山下、山本武、坂口、三浦
先行救助隊:山口博、伊平、常世田

装備

9mmロープ×?、トランシーバー多数、ノコギリ×1、エアマット×2

救助活動

AM3時半起床、シレイ沢出合5時出発。救助隊のほとんどは渓流タビが無いので滝は直登せず、全て高巻く。足場の悪い巻道はロープを固定した。6時前にゴルジュの手前で前夜ビバーグした山口さん達のパーティーと合流する。
遡行の途中で、松元さんと伊平さんが搬送が困難である事、ヘリも谷には降りれないだろう事をはなす。AM7時現場到着。福地さんが迎えてくれて、相原、高村は未だ寝ているとの事。前夜は焚火をしてわりと落ちついて過ごしたそうだ。
和智さんが直径10cm程の丸太を切り出して1mx2.5mの担架を組み、ロープを張り巡らしてクッションにし、丸太のいたるところにシェリンゲを取り付けて支点にする。
相原君に鎮痛剤を飲ませて、シュラフに入れたまま二枚のエアマットではさみ、ロープで担架に固定する。相原君のハーネスから取ったセルフビレイは担架の上部に固定する。
下降はAM8時から行われ、次の4つのパターンが繰り返された。

・平らで通常に歩けるところは担架を6-8人が担いだ。担架のビレイはする場合と不要な場合があった。

・歩行可能だが下り傾斜のあるところは立木を使って斜張をし、その斜張ロープに担架の周りに取り付けたシュリンゲの末端のカラビナをかけ、進行方向に引き綱、反対方向にビレイロープをつけた。
斜張を強く張ることにより、荷重が斜張ロープに逃げて周りの搬送者は担架を障害物から離したり、前方に送り出すだけで済んだ。

・歩行不能の滝も立木を使って斜張をきわめて強く張り、上記と同様こ担架を配置して引き綱を強く引く事によって搬送者なしで下降させた。

・立木の多い巻道で、斜張ロープが屈曲するためロープの張りに強弱をつけか場合、一方を人間アンカーにして搬送者の無線の指示により強弱をつけた。

PM2時頃ゴルジュの入口にさしかかる。ゴルジュ内の巻道は障害となる木をノコギリで切り、つまづきそうな岩を排除して整備した。
PM5時ゴルジュを抜けたところで松元さんが出合いの出合の田島寛さんと無線で交信し、相原君の親に甲府まで来てもらうように伝言した。
ガレ場こ出たあたりで再度松元さんが出合の田島寛さんと無線で交信し、救急車を要請した。
出合間近の急斜面の下降は斜張せず、大岩と立木の2箇所でビレイし、下降点に2名、担架の保持にビレイされた2名を配置して行われた。
シレイ沢橋下からの釣り上げは担架を動滑車にした2:1法で橋上から引っ張り、担架の下部を別のロープで引いて抵抗を少なくした。
PM7時橋上に引き揚げ終了。PM7:30救急車到着。相原君は共立巨摩(こま)病院に収容された。(PM8:30)山本裕が救急車で同乗し、その他の人は芦安派出所に集合の後解散した。
田島寛さんのみ山本の車を運んで病院に追求する。PM11:00頃相原君のお父さんが病院に見えられ、山本、田島は帰路に付いた。

病床での診断

相原君の怪我は右足の大腿骨の付け根付近を2箇所螺旋状に骨折しているのと、かかとを骨折しているとのこと。内出血があり長く放置されていたため、ヘモグロビンが減少している。

事故報告 その2 松元記

売上が悪く北岳に行く気がどうしても起きない。行ったところで売上が下がるわけでも無いのだが、仕事をしていれば気分的に後ろめたさから、逃げられると思い、北岳会山行は遠慮した。
7月20日(日)午後2時15分、突然第9のメロデー(携帯電話の呼出しコール)が鳴りだした。「あ、事故だ」瞬間的に思った。この時間に携帯がなりだすのは事故以外に無い。やはりそうだった。山本裕二郎の声が携帯から響きだす。
「すみません。シレイ沢で、相原君が、右大腿部を骨折しました。3人では降ろせませんので、救助して下さい」、「よし、わかった。お前は今どこにいるのだ」、「広河原です」、「俺のパジェロを探し(坂口に貸した)、後のバンパーの裏よりスペアーキーを出し、無線(違法だが45ワットを積んでいる)を使ってバットレスを呼出し救助を要請しろ。俺はすぐに広河原に行く」。まず桜井に電話、誰も出ない。博道、子供と散歩夕方帰宅。字賀田留守。直樹留守。松野留守(後からわかったのだが、桜井の電話が名簿に記載)ここまで留守が続くと、立木、秦、本郷の顔が浮かぶ、今更と思い直し。小林(自宅、会社)、遠藤、村上、宮城(携
帯)、杉浦(会社、自宅)と続けるが全て留守。倉島、和智は仕事だろうと勝手に判断した。良く考えて見れば用事があるから会山行に出られないのだ。逆に居る方が不思議なのだ。
自宅に帰り相原君の自宅に連絡をする。お父さんに現状を話している最中、再度山本より連絡が入っ。て来た。「無線で連絡が取れません。お池小屋に事故有り、救助頼む旨の言づけをしました。現場に戻りますので松元さんの隊で、お池小屋まで登って連絡を取って下さい」、「だめだ、俺達が着いて連絡を取れば、夜中になる。お前が今から行けば広河原往復しても、7~8時に広河原に戻れる。今日中に全員広河原に集め明日、日の出と共に救助に入る」山本にお池小屋に登ってもらう。相原君のお父さんには今後の事を話し、「命に別状が無いので、下に降ろした段階で連絡を取ります」等報告して出発する。
10人掛けて居ないので、諦めながらも和智に電話を掛ける。いた。帰りの隊員の収容を考えて、和智のハイエースで行く事にした。とりあえず和智の家に行く。
先程は女の子が出たので、もう一度杉浦に電話する。またもや女の子の留守電あいつ何時から女の子と同棲して居るのか、とりあえず女の子にことずけを頼む。
中央高速を走っている最中、杉浦より連絡が入る。直ぐ広河原に行ってもらう事にした。ハイエースの助手席で、再度桜井に電話する。またもや女の子。「パパとママはお買物」これで桜井の居所もわかった。もう一度松野にも電話する。又又女の子、松野夫妻は何時子供作ったのだろうか。(実は女の子は桜井の娘、名簿のミス)
6時頃山口より連絡がはいる。「幕営地で救助を頼む」と云うことずけだけで、広河原に降りて来たらし、詳細を説明しうまく行けば現地に日没寸前に着くかもしれないので、伊平、常世田の3名で急行してもらう。
芦安付近で桜井、博道より連絡が入る。とりあえず待機してもらうことにする。
7時シレイ沢の出合着。山本裕二郎に合流する。広河原に行き、お池小屋より降りて来た連中に、明朝4時にシレイ沢出合集合を伝え、シレイ沢出合に戻る。
山口パーティより無線が入る。ルートがわからないので、「ここらでビバークする」明朝沢の中で合流する事にする。
8時杉浦到着。9時頃お池小屋より坂口パーティより連絡が入る。「12時頃広河原に到着する」三浦が先発した。

7月21日(月)
午前4時シレイ沢出合に集合。まだ暗いので出発を30分ずらす。田島寛、山口夫人、清水、高橋、の4人を連絡員として残す。
橋より沢に降りるがワイヤーにぶら下がっての5m、ここを担架でどうやって持ち上げるか、最初から難問題。次に現れたのが崩れたガラ場。1t以上もある大岩が急な斜面に、今にも崩れそうな状況で、乗る度に岩が動き不気味な音を発する。本当にここを全員で無事に降ろせるか、不安になってきた。
沢に入ること30分、ゴルジュの手前左岸の急な斜面より、山口、伊平、常世田の3名が降りてきた。責任を感じているのか、山本裕二郎は先頭で巻き道にフィクスロープをどんどん張って行く。滝が現れる度に、ここは自分達では降ろせない、ヘリを頼まなくてはと段々不安になる。
7時現場着。福地、高村は焚火等して相原の面倒と、自分達の事をちゃんとコントロール出来ているか心配だったが、焚火の跡やさほど疲労感の無い顔を見て安心する。相原は青白い顔をしているが、わりと元気だった(元気にしていたのかもしれない)。
早速和智に木を切らせ担架を作る。エアーマットをひき相原を乗せ、担架より落ちないないようロープでしばる。杉浦と常世田に稜線を偵察させたが、沢通に降りた方が良いようである。
9時搬出開始。8人で降ろし始めるが、足場の悪さと重いので思うように進めない。果たして降ろせるのか不安になる。
斜張りをし、担架を釣り下げ移動してみた。テンションが係るので、担架が地べたすれすれになるが、思いのほかうまく移動出来る。運んで降りるよりこの方がとても楽である。
10m位の滝にぶっかる。いきなり斜張りは不安である。空中で担架がばらばらになりやしないか、ロープが切れやしないか不安だらけであるが、これ以外降ろし様がない。万が一の事を考え相原自身にもビレーを取り、ケーブルよろしく、担架をスベラせる。想像していた以上にスムーズに垂中を30m位移動していった。この斜張りを中心に下降を続けるが、使えない所の苦労は大変である。担架が木にひっかかったり、。足場が悪く転げ落ちたり、8人位で担いでいるが、実際は4人位で担いでいるのと同じである。斜破りが出来ない様な大滝は、巻き道を担架も担ぎ手もビレーを取りながら下降するのだが、緊張と担架がひっかかりスムーズに移動出来ない、いらだちさと疲労で、かなり気が立つ。
行動して6時間ルート工作をしている間に担架のオーバーホール。かなり無理をさせたわりには、ガタがきていなかった。相原も担架に縛らればなしで、きつかっただろう。手足を伸ばしホットしているようだ。ルートもどうやら半分、日没までの5~6時間でスーパー林道に何とか出たいものだ。担架を引いたり、担いだり、斜張りをしたり、はたまた転落したりの悪戦苦闘の連続だったが、どうやら最後の大岩のゴロゴロ地帯に到着した。あと1時間位でスーパー林道に着けそうだ。無線で田島寛に救急車の手配と、家族に連絡を取るように指示する。
連絡係と我々と意志疎通が今いち欠けていた。連絡係は常に無線機に1~2名は張りつき、こちらの指示を必ずメモッて動かなくてはいけない。
何時崩れるかわからない、大岩地帯を慎重に移動するが、岩のきしみでドキッとする。ブッシュ滞の下りと違い、足場は以外と安定して見えるし、担架も木等にひっかかる事も無く、考えていたより早く最後の滝まで降ろせた。だがこの滝は、斜張りも出来ず、巻き道も無く、担架を滝に沿ってズルズルと引き降ろすしか方法は無い。落石に注意しながら、一気に引き降ろす。うまくいった。残るは林道までの垂直5mの引上げ。ここも杉浦が滑車を使いあっというまに上がった。
救助作業終了7時、太陽も沈み薄暗くなっていたが、何とか本日中に処理が出来ホッとした。ほどなく救急車が来た。とりあえず相原を巨摩共立病床に入院させる。我々は芦安の駐在所で事情聴取が有るため芦安に向かう。
今回の救助活動は時間との競争だった。日が落ちる前にスーパー林道に搬出しなくてはならないこと。又救助隊員の帰京の時間等があった。搬出はギリギリの線で間にあった。これがもう1時間遅れれば再度のビバークになってしまう。相原も2ビバークで今以上に傷は悪化するだろうし、バットレス組もかなり疲労して来ており、二重遭難も考えられる。車組以外は家にたどり着けなかった様だ。
今回の事故で考えされられた事は
1.会山行中の個人山行。佐藤寿夫の時も、今回もたまたまバットレスだった為、バットレス組を救助隊に転出出来たが、他山域だった場合はどうだったろうか。
2.名簿の整理、特にポケベル、携帯電話の記入
3.無線機及び無線システムの整備
4.連絡員の仕事
5.沢からの搬出訓練(雪、岩、沢の搬出訓練)
6.会員の奉仕の精神等が挙げられる。
これらの事を一つ一つ解決しながら安全登山をしたいと思っております。
また、自分達の会で起こした事故は、自分達の会で解決を。遊びで起こした事故を、他人に命をかけさせて救助させるのは大変申し訳無い。救助技術を持たない(修得しない〉者は、岩を登る資格が無いと思っても良いと思う。今後もこの様な事故があるかもしれないが、自分達のパーティで、毎分達の会で救助出来る技術と体制をつくりましょう。

今回は大変ご苦労様でした。相原の一日でも早い回復を祈りましょう。

戻る

Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Google Bookmarks