第4の極地(寒極)に挑む

1994/8/15~26
松岡 記


日ロ親善/学術調査冬季シベリア登山偵察隊報告

日 程 1994年8月15日(月)~26日(金)12日間
参加者 登山隊、協力隊、添乗員  11名
ロシア人インスラトクター 4名
ロシア人通訳       1名
ヘリコプター クルー    4名   計 20名

8月15日(月)
●新潟空港(15:30)~ハバロフスク(17:30)

東京から新幹線で2時間、空港まで20分、エアロフロートで飛んで2時間でハバロフスクに着いた。日本の首都から極東ロシア最大の都市まで、たった実質4時間20分しかかからなのかと感激していると、入国審査と税関で2時間も並ばされて、がっかりした。
ホテルについて快適な夜はふけていく。例外として同行の植物学者の大森さんは、標本作成用の薬品容器を空港で壊されて、酢酸とアルコールを床にぶちまけ、ハバロフスク空港のサリン事件を起こした後始末で一人夜更けまで残業してがんばっていた。

8月16日(火)
●ハバロフスク(11:00)~オホーツク(19:20)

ジェット機で、オホーツクまで行ける予定が、いきなり変更、BCまで行くミル8という輸送ヘリコプターに乗り込むこととなる。
耳栓をしても悩まされる騒音と機関車のような振動は往復3、000kmの飛行に耐えうるものであろうかと心配する。眼下にはひたすら続づく大湿原と点在する地溏群は、尾瀬ケ原か釧路湿原原生花園と表現したら理解してもらえるだろうか。
途中給油によったアイアンの飛行場脇の御花畑の中で、人の足より大きな熊の足跡を見つけて、ゾッとする。
19:20オホーツクの町はずれの河原にヘリは着陸し、ここでテントを出してキャンプすると言う。契約した日程表によると、宿泊所に泊まれるはずなのにと首をひねっていると、すぐにヤプ蚊の大群に襲われてテントのなかに逃げ込む。

8月17日(水)
●オホーツク停滞  曇り

ヘリ無線でススマン管制と交信する。天候不順の為オホーツク停滞。ヤプ蚊に悩まされ続ける。これさえなければ、焚き木にする流木は豊富でヘリコプターを常駐させたキャンプは最高だろうと思う。
本流で、産卵の為上って来るシャケの群れを見た。生れて始めてなので感動した。夕食に町で仕入れたシャケを揚げ物にして食べる。新鮮で美味しい。特に白子は格別だ。これをサカナにウォッカの水割りを飲むと特にうまい。ロシア人にはウォッカの水割りは邪道と顰蹙を買うが、文化の違いだと主張して騒いでいるうちに、つい飲みすぎた。

8月18日(木)雨のち曇。
●オホーツク(09:80)~ススマン(12:17)~BC(ベースキャンプの略15:40)

0900ススマンとの交信で飛べると、パイロットが判断した。我々は急いでテントをたたんで出発する。私は2日酔いで気持ちが悪い。ススマンに近付くにつれて、チェルスキー山脈が見えてきた。昨日降ったのか頂が白くなっていた。
盆地状の所々に広大な露天掘りの跡が見えた。それが、広大なススマン鉱山で主に金を産出するという。行けども行けども川沿いに掘り散らかしている。さすが、シベリヤである。
12:17ススマン空港到着給油。
15:10やっとチェルスキー山脈のBC予定地近くに到着、ヘリは日本人と整備士を降ろし、軽くしてBC捜しに向かう。
15:35BCに機材を降ろし、折り返し我々をBCに運ぶ。BCからは、まだ目標のポベータ峰は氷河の奥でまだ見えない。

8月19日曇り
●BC~ABC~ルート工作

白夜という安心感から、すべてベースがのろい。
07:30起床 08:00食事10:40BC出発。ホグリチェフ氷河の右岸のガラ場を岩なだれを心配しながら、高度を稼ぐ。12:20分岐からスームギン氷河にはいる。やっと右手奥に真白きポベータ峰が見えてきた。
15:00ポベータ北側氷河上のABC予定地に到着。GPS(衛星測量)で現在地を測定すると、北緯65度7分乗径146度01分高度2、300mであった。
15:30テントを張って、ルート工作に出発する。下部雪田のクレバスを飛び越え下部岩壁帯にフイクスロープ(8mm)100mを5本の八-ケンで固定する。さらに第1雪田に120m(6mm)のフィクスロープを伸ばすと、天侯が急悪化しガスの為ホワイトアウトとなり、ノースコル50m手前で、3時間のルート工作を終わらせる。19:30ABC着

8月20日朝高曇り、のち晴れ、のち暴風雪
●ABC~頂上~BC

06:30起床、天候は高曇りで項上が見える。やった登頂日和だと思った。
06:40食事。通訳のアエラが紅茶の鍋をひっくり返したので、行動中の水筒を制限し2人に1本とする。
08:30出発、晴れていた。
09:20昨日のルート工作終了点到着、ノースコルロックに向けて6mmロープを張って行く。あわせて50mに1本すつ赤旗を立てて行く。(これは吹雪の時役に立つ。)
10:00ノースコルをすぎ高度2、850m地点のゴールド岩峰にさしかかる。これを左に巻きながら斜度65度のダイヤモンドクロアールを直上してスノードームに抜け出そうと作戦を立てルート工作をする。
11:00ゴールルド岩峰の基部にハーケンを打込み、雪壁には、20cmの新雪をはいで下の氷に40cmのアイススクリューをねじ込み、100mのロープを固定する。
高度2、950mのスノードームにさしかかる頃、天候は急遽悪化し吹雪となった。第二雪田上は深雪でひざ上のラッセルとなる。
11:50前々からの宮地隊長との申し合わせで、本隊から先発しロシア人インストラクターのオレグ、サーシヤ、セルゲイと私の、4名で上部雪壁のレンジャークロアールを駆け上がる。理由は天候が完全に崩れきるまでに、頂上から南稜線の偵察を実施し、写真に納める為であったが、実際のところホワイトアウトで実行できなかった。
12:10壁の途中で、ブリザードにあう。チリ雪崩がたびたび落ちてくる。この山のめまぐるしい天候の変化は北アルプスの冬に匹敵するものだろう。登っている最中、飛ばされまいとして、耐風姿勢を幾度となく繰り返す。気温は-3度であるが10m以上の風が吹き体感温度は-13度以上はある。やっと北峰3、100mの頂に立つ。ホワイトアウトで周りの景色は見えず。
12:30鋸の刃のようなリッジをゆくと、前登頂者が残した金属ポール(1m)見えそこが3、147mの頂上と確信する。5分遅れで到着したオレグがポールの下の右を取り除き、防水処置をしたピース缶大のケースを取り出す。そのケースの中には、まさしく第4登者の書き付けが入っており、オレグと固い握手をかわす。
13:30本隊が天候の小康状態をついて登頂した。ここに植物学者の大森さんと、一般ツーリストの小島百合子さんを除く日本人隊9名とロシア人隊3名、あわせて12名が史上5登日のポベータ峰登頂を果たした。

8月20日(月)
●ABC(アタックベースキャンプ)~頂上~BC

13:50登頂を喜び合うのもつかの問、横殴りの吹雪に、体温を奪われるため、下山を始める。急傾斜のレンジャークロアールには、捨て縄を縛りつけてカラピナを固定し、それを支点にリペリング(懸垂下降)で下る。
露岩のない所は、約20cmの新雪をはがし、下の氷に、アイススクリューハーケンをーねじ込んで、それを支点として使う。
14:30スノードームにさしかかったころ、降雪とガスの為、2~3mの先しか見えない。完全にホワイトアウトの状態だ。
この白い悪魔に視界を奪われると、登山者は酔った様な気持ちに襲われて、必要以上に動き回り、足を潜み外して谷に転落する。スノードーム地点には、雪庇といって、尾根の風下にひさし状に張り出した箇所がある。落とし穴みたいなもので、この上に、踏み込んだら最後である。
ホワイトアウトにあったら、とりあえず立ち止まり周辺視をする。降雪さえなければ、登ってきた時の足跡を踏んで帰ればよいのであるが、今回はブリザードで、とっくに足跡は消されている。降雪の合間に視界がすこし良くなる時がある。その一瞬のチャンスに、
登りの時50mおきに立ててきた赤旗を捜しだし方向を定める。先頭の者(コンパスマン)の経験とカンがたよりだ。
よく先輩に、登山とは、自分の家の玄関から出ていって同じ玄関に帰り着くまでの行為をいうんであり、それまでけして油断するなと言われたもんである。私も、よくそれを実感する。晴天に気を良くし、登りに全力を出し切って、下降で気を抜いて油断し、命を失った登山家がなんと多いことか。
私の持論は、たとえ登りに全力を出し切ってへトヘトになっても、隊を安全に導くという責任感と生き残るという気力を持続することで安全に下降できると信じる。また、登りで精一杯にならないように、体力と経験を身に付ける訓練をすることが必要である。その訓練はたゆまず続けることである。たとえ、仕事仲間との着きあいや家族サービスが悪くなっても定期的に山に通い続けることが、生き残るひけつである。
これは、世間一般で言われる安全論とは、すこし違う考え方なので、理解されないことが多い。しかし、過去に大学や社会人山岳会等で数年間所属した経験者が、その後10数年練成訓練もせずに、突然山で遭難事件を起こすことが多い。これは、初心者の起こす遭難よりたちが悪い。なぜかといえば、初心者の謙虚さが無いからだ。
山は、その楽しさとその真に潜む危険を熟知して、四季を通じて、かよい続けることが大切であると思う。
16:00ノースコル(2700m)にさしかかるころには、降雪はあるが、雲の中より脱出したため、充分な視界が得られた。後は、フイクスロープをつたわって降りるだけだ。
16:30ABCに近付くにつれて、驚くべき事態が発生していたことが判明した。3つ張ったテントの2つが壊滅していた。1つは、10m以上飛ばされて見事にひっくり返っていた。1つは、ポールが折れ、降雪で埋まっていた。
唯一通訳のアエラがテントキーバーとして守っていたテントだけ、破れてはいたが無事という状態であった。ABCにも、暴風雪は襲いかかり、アエラは自分のテントを守るのにせいいっぱいで、ポールを支えながら、必死に耐えていたと言う。
我々は、休む暇もなく、吹雪の中破れたテントを撤収し、BCへの帰隊準備にとりかかる。
17:15BCに向けスームギン氷河をくだる。途中、吹雪は雨にかわり、増水した川を、なんとか浅瀬を見つけ、渡河する。
20:00濡れ鼠になってBC帰隊。
22:00夕食を食べ、ウォッカで登頂を祝い、長い1日を終えた。

8月21日(日)早朝雪のち晴れ
●BC~山裾の河原

11:00起床、朝食。支援隊(一般公募)で来て、登頂できた横山君と舟木さんの調子が悪い。横山君は38度の熱と昨夜からの嘔吐で、朝食は食べることができない。舟木さんも、昨夜より吐き気がするというので、食事を抜く。
両名とも栄養剤と風邪薬を与え、静養させる。昨日の14時間労働は、過酷だったらしい。
他の登山隊員は昼間から酒を飲み元気そのもの。

8月22日(月)晴れ
●山裾の河原~ススマン~オホーツク~チュミカ村

8月23日(火)晴れ
●チュミカ村~チェグドメ~バジャール

8月24日(水)晴れ
●バジャール 休養

8月25日(木)雨
●バヂャール~ハバロフスク

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